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たびの足 日本偉人伝

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鎌倉時代 武士政権の始まり


平安時代末期に河内源氏嫡流の源義朝の三男として生まれ、平治の乱で父が平清盛に敗れると伊豆国へ流される。
その後平家打倒の兵を挙げ、関東を平定し鎌倉を本拠とする。
戦いに活躍した源義経を追放し、諸国に守護と地頭を配して力を強め、(1192年)に征夷大将軍に任じられた。
これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれた。この政権は鎌倉幕府と呼ばれ、幕府による武家政権は、明治維新までの
約680年間に渡り、存続することとなる。



源頼朝 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約4時間
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鎌倉駅〜寿福寺〜鶴岡八幡宮〜源頼朝の墓〜大巧寺〜常栄寺〜由比若宮〜高徳院〜鎌倉駅

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鶴岡八幡宮:康平6年(1063)源頼義公が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。 以降、武家の精神のよりどころとなり、国家鎮護の神としての信仰は全国に広まりました。 鶴岡八幡宮への信仰を背景に鎌倉
を中心として興った質実剛健の気風は、その後「武士道」に代表される日本人の精神性の基調となりました。 現在では国際的史都鎌倉の中心的施設として国の内外より年間を通して数多の参拝者が訪れます。





平清盛と戦った父の敗北により鞍馬寺へと預けられるが、後に奥州平泉へと下り奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護を受ける。兄頼朝が平家打倒の兵を挙げるとそれに馳     せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平家を滅ぼし、その最大の功労者となった。
   その後、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。



源義経 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約3時間
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一ノ関駅〜弁慶の墓〜中尊寺〜高館義経堂〜一ノ関駅


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中尊寺:中尊寺は、嘉祥3年(850)、天台宗の高僧、慈覚大師円仁によって、この地に弘台寿院という寺が開かれたことに始まるといわれています。その後、長治2年(1105)より、奥州藤原氏初代清衡公によって多くの堂塔伽藍が建立されました。この時代の唯一の建造物である金色堂には、この地方の産物である金のほか、南海産の貝や木材がふんだんに使われ、また経蔵には金や銀をつかって書写された「中尊寺経」や中国から輸入された「宋版一切経」が納められ、現在に伝えられています。





伊勢平氏棟梁忠盛の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。武士では初めて太政大臣に任ぜられ、「平氏にあらずんば人にあらず」と言われる時代を築いた。
   平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
   しかし、日本初の武家政権を築き上げ、さらには諸外国との貿易にも着目した清盛は、日本における大政治家の一人と言えるであろう。



平清盛 ゆかりの地を辿る
モデルコース 広島   約4時間
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広島駅〜宮島厳島神社〜清盛神社〜広島市内

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モデルコース 京都   約5時間
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京都駅〜新熊野神社〜蓮華王院(三十三間堂)〜六波羅蜜寺〜寂光院〜祗王寺・滝口寺〜

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宮島厳島神社:厳島神社の創建は、推古天皇元年(593年)、佐伯鞍職によると伝えられます。平安時代後期の仁安3年(1168年)には、佐伯景弘が厳島神社を崇敬した平清盛の援助を得て、今日のような廻廊で結ばれた海上社殿を造営。本殿以下37棟の本宮(内宮)と、対岸の地御前に19棟の外宮が設けられ、全て完成するまでに数年が費やされたといわれます。社運は平家一門の権勢が増大していくにつれ高まり、その名を世に広く知られるようになりました。




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室町・戦国時代 風雲時代の到来


本姓は源氏。家系は清和源氏の流れを汲む河内源氏の名門足利氏に嫡男として生まれる。 始めは鎌倉幕府に仕えるが、後醍醐天皇の綸旨を受けて倒幕を果たす。
後醍醐天皇の執った建武の新政は武士の支持を得られず、幕府設立の動きを見せる。これにより朝廷から討伐令を受け、南朝を京から吉野に追い、北朝として擁立し た持明院統から征夷大将軍に任じられ、後の室町幕府を開いた。
尊氏は長く逆賊と評されており。没落と栄光を繰り返した尊氏の人生は日本史上最も壮絶なものと言っても過言ではない。


足利尊氏 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約4時間30分
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足利氏縁の寺巡り:京都駅〜天竜寺〜宝筐院〜等持院〜金閣寺〜相国寺〜銀閣寺〜京都駅

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天竜寺:1239(暦応2)年に吉野で不遇の中に崩御された後醍醐天皇を慰めるために、足利尊氏が高僧夢窓国師を開山として、嵐山を背景とする亀山離宮を禅寺にあらためたのがはじまりである。 天皇が幼少の頃を修学に過ごされた地に、敵味方の別なく南北両朝の戦死者の英霊を慰めること、「怨親平等の精神」もこの寺の開創の目的であった。





甲斐守護武田信虎の嫡男として生まれる。1541年クーデターを起こし父、信虎を駿河へ追放し甲斐武田家の当主となる。越後の上杉謙信と5度に渡り信州川中島で戦い、中でも1561の4回目の決戦は激戦で川中島の合戦として有名である。1572年上洛を目指し三河・遠江に侵攻。三方ヶ原で徳川。織田連合軍を撃破するも翌年、かねてからの病状が悪化し帰国途中の伊那の駒場で没した。
風林火山を旗印に、戦国最強の騎馬軍団を率い織田信長、徳川家康からもっとも恐れられた英傑でありながら軍事だけでなく政治家としても優れ、分国法として「甲州法度之次第」の制定や「信玄堤」とよばれる治水、交通制度の整備など民政に努めた。また甲州金として知られる金山開発をおこなった。
名言「人は城、人は石垣、人は堀、情けは見方、仇は敵なり」

武田信玄 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約6時間
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石和温泉〜恵林寺〜信玄堤〜甲斐善光寺〜武田神社〜積翠寺・・・要害城跡〜信玄公墓〜大泉寺〜甲府駅

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恵林寺:恵林寺は1330年、夢窓国師(むそうこくし)によって開かれ、戦国武将・武田信玄が菩提寺と定めた臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)の古刹です。
庭園は国の名勝に指定されています。美濃崇福寺から快川紹喜を招き天正4年(1576年)4月には、快川を大導師に信玄の葬儀が行われました。武田氏が滅亡した後に恵林寺に逃げ込んだ六角義弼の引渡しを寺側が拒否したため、織田軍による焼き討ちにあった。この際、快川紹喜が燃え盛る山門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と偈を発して快川紹喜は焼死したことで知られる。





越後国の守護代を務めた長尾氏に生まれ、後に主君上杉定実の義甥となる。兄の晴景の養子となって長尾氏の家督を継ぎ、上杉憲政から上杉姓と関東管領職を譲られる。周辺の武田信玄、北条氏康、織田信長らと合戦を繰り広げた。 生まれつきのカリスマ性を持ち、兄から呼びもどされて元服すると長尾家家臣だけでなく、豪族達の心もつかんだとされている。 自ら毘沙門天の転生であると信じて、軍事に関しては、越後の龍や軍神と後世で評されており、卓越したものがあった。謙信は天才型で、迅速な用兵と駆け引きの的確さから生涯殆どの戦で勝利をおさめたといわれる。死因について、過度の飲酒と、つまみの梅干による塩分の取りすぎによる高血圧が原因の脳溢血と言われている(雪の中、厠で倒れたと史料にあることも、死因が脳溢血だと考えられる一因である)。※謙信が女性であったという説も存在する。



上杉謙信 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約3時間30分
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米沢駅〜上杉神社・・・上杉記念館〜春日山林泉寺〜上杉家廟所〜塩野毘沙門堂〜米沢駅

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上杉家廟所:上杉家歴代藩主の廟所で、藩祖謙信公を中央にしてその両側に12代までの藩主の廟が並んでいます。廟は2代から8代までは社造りで、材質もケヤキを用い、柱は丸柱となっています。9代から12代までの廟は10代藩主鷹山公の考案による宝形造りで、材質もスギやヒノキを用い、柱は角柱と簡素になり、藩の財政事情がうかがわれます。





青年期は、尾張の大うつけと称されるが、今川義元率いる大軍団をわずか10分の1程の軍勢で打ち破るという、歴史上最も華々しい逆転劇と言われる、桶狭間の戦いで名を上げる。その後も自ら擁立した15将軍足利義昭を破って京都から追放し、室町時代を終らせ、元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた。
既存の権威や勢力(朝廷・仏教など)の否定、家柄門地によらない人材登用、新兵器であった火縄銃の活用などを通して戦国時代を終結  へと導いていったが、延暦寺焼き討ちなどの苛烈な政策から魔王(第六天魔王)とも恐れられた。最後は家臣の明智光秀の謀反(本能寺の変)により 自害。


織田信長 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約6時間30分
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京都駅〜安土城跡〜ハ見寺〜西光寺・・・織田信長の墓〜大徳寺総見院〜本能寺〜信長の首洗い井〜京都駅

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大徳寺総見院:総見院は、織田信長の菩提を弔うため秀吉が建立。安土桃山時代の天正10年(1582)、豊臣秀吉が主君信長の冥福を祈るために古渓宗陳(こけいそうちん)和尚を開祖として創建。信長の葬儀はここで盛大に行なわれたとされている。墓地には、信長以下、織田家の墓が建ち並ぶ。





尾張国中村の百姓として生まれ、織田信長に仕え、次第に頭角を表す。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、中国大返しにより京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破り、信長の後継の地位を得る。その後、大坂城を築き関白・太政大臣に任ぜられた。
意外なことに書に優れ、北大路魯山人は秀吉の書に対して、新たに三筆を選べば、秀吉も加えられると高く評価した。
徳川家康や秀頼の護り役の前田利家に後事を託して伏見城で没した(死因については胃がんなど諸説あり)。享年61。



豊臣秀吉 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約5時間
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京都駅〜醍醐寺・・・三宝院庭園〜豊国廟〜豊国神社・・・方広寺〜瑞泉寺〜豊臣秀吉妙顕寺城跡〜大徳寺〜西本願寺〜京都駅

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三宝院庭園:三宝院庭園は慶3年(1598)豊臣秀吉が三宝院を中心に開催した「醍醐の花見」に際して秀吉自らが基本設計、工事を進めたがその年の8月、秀吉は完成を見ずに死去するが醍醐寺座主義演准后(ギエンジュゴウ)指導により庭師賢庭が施工した。水の音が変化するように造られた三段の滝や池泉の亀島、鶴島などが設けられ、その背後には須弥山石組が連山形式で組まれている。その東側に名石藤戸石がある。桃山時代の華やかな雰囲気を伝え、特別名勝、特別史跡になっている。




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江戸時代 天下安定太平の世


三河国の土豪である松平氏第8代当主・松平広忠の嫡男として、生まれた。幼少は今川氏や織田氏のもとで人質として過ごす。その後今川氏から自立を果たす後、信長と同盟を結び(清洲同盟)、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。信長、秀吉の死後天下分け目の決戦「関が原の戦い」に勝利し、1603年江戸幕府を開く。73歳で死去。死因は鯛の天ぷらによる食中毒説とも言われている。



徳川家康 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約4時間30分
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岡崎駅〜岡崎城・三河武士のやかた家康館〜大樹寺〜伊賀八幡宮〜法蔵寺〜妙源寺〜岡崎駅

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岡崎城:岡崎城の起源は15世紀前半まで遡ります。明大寺の地に西郷頼嗣(稠頼)によって築城されたのがそのはじまりです。その後、享禄3年(1530)に松平清康(家康の祖父)が現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになりました。
  天文11年(1542)12月26日、徳川家康は、ここ岡崎城内で誕生しました。





平幼少時に患った疱瘡(天然痘)の後遺症により右目を失明し、また派手で知られたため、後に独眼竜という異名がついた。失明以降、母親の最上義姫に姿が醜いと疎れ、弟だけが母の愛情を注がれたとされる。政宗は豊臣政権時代から、隙あらば天下を簒奪しようと何度も策略していたとされている。
1636年5月江戸で死亡。享年70。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。



伊達政宗 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約6時間30分
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仙台駅〜瑞鳳殿〜青葉城跡〜仙台博物館〜大崎八幡宮〜資福寺〜覚範寺〜伊達政宗歴史館〜松島(車窓)〜仙台市内

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瑞鳳殿: 寛永13年70歳で生涯を閉じた伊達政宗公の霊屋である瑞鳳殿は、公の遺命によりその翌年経ケ峯に造営されました。瑞鳳殿は、桃山様式の遺風を伝える豪華絢爛たる廟建築として昭和6年(1931)国宝に指定されましたが、昭和20年の戦災で惜しくも焼失しました。現在の本殿拝殿・涅槃門・御供所(資料館)は、昭和54年に再建されたものです。





二刀を用いることで有名な二天一流兵法の祖。出生地について兵庫県、岡山県と複数の諸説あり未だ不明である。武蔵の著書『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利、16歳で但馬国の秋山という強力の兵法者に勝利、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、佐々木小次郎との「巌流島の決闘」である。晩年は熊本藩の客分として仕え62歳で亡くなる。



宮本武蔵 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約5時間30分
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熊本駅〜岩戸の里公園・霊厳洞・岩戸観音〜谷尾崎梅林公園〜武蔵塚公園〜西の武蔵塚〜島田美術館〜熊本駅

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霊厳洞;熊本市の西方、金峰山(きんぽうざん)山麓にある洞窟。うっそうと茂る樹木におおわれ、神秘的な霊場として知られる雲巌禅寺(うんがんぜんじ)の裏山にあり、洞窟内には岩戸観音(いわとかんのん)の名で知られる観音像が安置されています。晩年の5年間を熊本で過ごした宮本武蔵(みやもとむさし)が、この洞窟にこもって兵法書「五輪書(ごりんしょ)」を完成させました。





徳川御三家の紀州藩の4男として生まれる。紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・家継の死により徳川将軍家の血筋が途絶えると、先々代の6代将軍家宣の正室である天英院に指名され、宗家以外からはじめて江戸幕府8代将軍に就任した。増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、目安箱の設置などの享保の改革を行った。
破綻しかけていた幕府財政を再建したことから江戸幕府中興の祖と呼ばれる。また米相場の安定に苦心したことから米将軍ともいわれる。



徳川吉宗 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約3時間
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JR和歌山駅〜和歌山城〜和歌の浦〜雑賀崎〜JR和歌山駅

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和歌山城:徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城であり、8代将軍徳川吉宗・14代将軍徳川家茂を輩出した。国指定史跡。かつては国宝の白亜天守が世界遺産の姫路城についで国宝に指定されていたが、戦災で焼失。和歌山城は見る角度によって趣が変化するなど面白みのある城である。




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幕末・近世 英雄乱立 新時代の幕開け


薩摩藩主島津斉彬に取り立てられ江戸、京都で志士活動をするも、安政の大獄と斉彬の死を契機に入水自殺を図る。
2度の島流しを経験、召還後第1次長州征討では幕府側の参謀として活躍。以後、討幕へと方向転換をはかり、坂本竜馬の仲介で長州の木戸孝允と薩長連合を結ぶ。勝海舟とともに江戸城無血開城を実現し、王政復古のクーデターを成功させた。新政府内でも参議として維新の改革を断行。しかし、明治政府ができた途端、派閥争いと汚職が活発になるとともに何のための明治維新であったと心底国を憂えた。明治6年(1873)、武士の世が終わり全国で士族となった者たちの不満が募り、それを解決するために征韓論(韓国との戦争)を主張。全権大使として朝鮮に渡り、 自分が殺されることで戦争の大儀名分を作ろうとするが、岩倉、大久保らの反対派に敗れ下野。明治10年(1877)郷里の私学校生徒に促されて挙兵(西南戦争)するが、政府軍に敗北し、自刃した。


西郷隆盛 ゆかりの地を辿る
モデルコース 鹿児島     約4時間30分
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鹿児島市内・鹿児島中央駅〜加治屋町・西郷隆盛生誕地〜西郷南州翁宅跡地〜錦江湾(鹿児島湾)〜花倉・西郷隆盛蘇生の家〜武の西郷屋敷跡〜山下町・私学校跡地〜城山・西郷銅像〜西郷洞窟〜西郷隆盛終焉の地〜南洲墓地〜鹿児島市内・鹿児島中央駅

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モデルコース 東京   約3時間30分
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東京駅〜三田・西郷隆盛・勝海舟会見の地碑(車窓)〜西郷山公園〜皇居〜上上野恩賜(おんし)公園(西郷隆盛銅像)〜東京駅

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南洲墓地: 南洲墓地には西南戦争に敗れた薩軍2023名もの将兵が眠っています。1877年(明治10) 岩崎谷で戦死した西郷以下40名を仮埋葬したこの地に、その2年後、市内各所に 埋葬されていた遺骨を移し、さらに6年後には、宮崎・熊本・大分の各県からも 集められました。 墓石は正面に西郷隆盛、左手に
最後まで奮戦した桐野利秋、右手には篠原国幹、 他には村田新八、辺見十郎太、別府晋介、桂久武など幹部が並び、鹿児島県令(知事) として西郷を支援し処刑された大山綱良や、わずか14歳にして戦場に消えた伊地知・ 池田両少年、兄弟5人が討ち死にした児玉兄弟、県外出身者の名も見られます。





平長州藩の上士の家の長男として生まれる。藩校明倫館で学んだ後、吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞とともに松下村塾の双璧と称え称される。
江戸遊学などを経て、文久3年(1863)萩藩外国船攻撃の際、登用されて奇兵隊を結成し、外国勢と戦う。元治元年(1864)四国連合艦隊との講和において正使として活躍。第1次長州征討の後、藩論を討幕に転換し、慶応2年(1866)薩摩藩との間に薩長連合を締結。同年6月第2次長州征討で指揮をとり、各地で幕府軍を打ち破ったが、翌年馬関で病死した。
辞世の句は「おもしろき こともなき世に おもしろく」



高杉晋作 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約3時間30分
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下関駅〜白石正一郎旧邸跡〜了円寺〜厳島神社〜高杉晋作終焉の地〜東光寺〜日和山高杉晋作像〜壇ノ浦砲台跡〜国宝功山寺〜下関市立長府博物館〜下関駅

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国宝功山寺:鎌倉時代創建、唐様(からよう)建築の美しさを保つ仏殿は、わが国最古の禅寺(ぜんでら)様式を残しており国宝に指定されています。明治維新の転機となった高杉晋作が、奇兵隊からも賛同されないまま、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊ら、わずか80人程度で挙兵した地(功山寺挙兵)でもあり、数多くの幕末ファンが訪れます。





土佐藩郷士。司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」などによって、国民的英雄とり生前より死後に有名になった。1853年江戸の北辰一刀流千葉定吉に師事。剣士として知られる。1861年武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加。1862年脱藩して江戸へ出、勝海舟の門下生となり、神戸海軍操練所建設に尽力。その後貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊の結成、また幕府倒幕の為、薩長連合締結に努力し、西郷隆盛と木戸孝允の盟約に立ち会った。1867年6月大政奉還の原案となる独自の国家構想をまとめた「船中八策」を後藤象二朗と長崎から海路上京する船で作成する。同年11月京都の近江屋で暗殺される。犯人は諸説あり未だ謎である。
※「日本で初めて株式会社を作った男」「日本で初めて新婚旅行に行った男」としても知られる


坂本龍馬 ゆかりの地を辿る
モデルコース 高知   約6時間30分
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高知市内〜田中良助旧邸資料館〜高知城・懐徳館〜龍馬郵便局〜坂本龍馬誕生地の碑〜坂本家墓地〜坂本龍馬記念館〜桂浜・坂本龍馬記念館〜

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モデルコース 京都   約6時間
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京都駅〜寺田屋〜霊山歴史館〜明治維新史跡坂本龍馬のお墓〜三年坂・ニ年坂〜壬生寺〜京都市内

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田中良助旧邸資料館:龍馬が足を運んだ建物で、高知県内で現在も形として残っているのはここだけと言われている貴重な史跡。坂本家が所有する坂本山の山番や所有地の領地組頭を務め、龍馬とも深い交流があった田中良助の屋敷を修復。





佐賀藩の下級武士江藤家の長男として生まれる。年少の頃から成績優秀であった。明治新政府において法律の整備に全力を注ぎ、その仕事の成果から日本の近代司法制度の生みの親となり、身分差別がまだ激しい時代に人権擁護の立場を取り、民主的な政治家として激しく改革を推し進める。征韓論で敗れ下野後、、1874 年1月10日に愛国公党が結成され、同12日民撰議院設立建白書に署名。佐賀に戻ると、佐賀征韓党首領として擁立され、「佐賀の乱」の首謀者として、司法省時代の部下であった河野敏鎌によって裁かれ、処刑・梟首された、享年41。 梟首された写真を撮られ全国の県庁で掲示され、その写真は現在に至るも残っている。



江藤新平 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約5時間
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佐賀駅〜佐賀城本丸歴史館〜大木喬任生誕地〜龍造寺隆信生誕地〜副島種臣生誕地〜高伝寺〜本行寺〜築地反射炉跡〜精煉方跡〜藩校弘道館跡〜微古館〜佐嘉神社〜大隈重信旧宅・・・大隈記念館〜佐賀駅

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佐賀城本丸歴史館:日本の近代化を先導した"幕末・維新期の佐賀"の魅力やエネルギーをわかりやすく紹介する佐賀県立佐賀城本丸歴史館。建物は、幕末期の佐賀城本丸御殿の一部を忠実に復元して建てられており、木造復元建物としては日本最大の規模を誇る。





福島県現・猪苗代町に野口佐代助、シカの長男として生まれる。野口家は代々貧農の家系であった。幼名は清作。 1歳の時に囲炉裏に落ち、左手を大火傷する。医師にかかることが出来ず癒着。「手ん棒」(隻腕の人物に対する世俗的呼称)と呼ばれる。独学で勉学に励み、20歳で医師免許を取得。北里伝染病研究所などので勤務後、1904年渡米しロックフェラー医学研究所に職を得る。 1911年、「梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表。一躍、世界の医学界に名前を知られることになり、1914年、1915年とノーベル医学賞候補となった。ガーナのアクラで黄熱病原を研究中に自身も感染。野口英世は「私には分からない」という言葉を口ずさみ、51年の生涯を閉じた。



野口英世 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約4時間
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会津若松駅〜野口英世青春館〜野口英世生家〜猪苗代・野口英世記念館〜磐梯熱海温泉

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野口英世青春館:野口英世が書生となり、医学への道を踏み出した曾陽[かいよう]医院の2階が青春時代を偲ぶ資料館。資料館のある通りは、一部がレンガ造りに整備され野口英世青春通りと呼ばれる。





江戸の牛込馬場下で数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克の末子として出生。1884年、東京大学予備門予科(明治19年4月、第一高等中学校に改称)に入学した。同級には、正岡常則(正岡子規。やがて親交を深め生涯の友人となる)。帝国大学英文科卒業後、松山中学などの教師を務めた後、イギリスへ留学。帰国後東大講師を勤めながら、『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』などを書く。その後朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。持病の胃潰瘍が悪化し、修善寺に療養するが大正5年(1916年) 12月に胃潰瘍のため他界する。享年49歳。



夏目漱石 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約4時間
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松山駅〜子規堂〜石手寺〜松山東高校〜松山市立子規記念博物館〜からくり時計〜宝厳寺〜道後温泉

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宝厳寺:門から境内にかけての参道両側は歓楽街・ネオン坂。漱石が『坊っちゃん』に「山門のなかに遊郭があるなんて前代未聞」と描いたように、かつての花街の雰囲気が今も残っている。





松山藩士、正岡常尚、八重の長男として生まれる。松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)入学。のち上京。東京大学予備門(のち第一高等中学校 )へ入学。夏目漱石、山田美妙、尾崎紅葉、寺石正路などが同級。俳句を作り始める。俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人である。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。享年34 子規は野球の名付け親の1 人でもある。



正岡子規 ゆかりの地を辿る
モデルコース   約4時間
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松山駅〜子規堂〜石手寺〜松山東高校〜松山市立子規記念博物館〜からくり時計〜宝厳寺〜道後温泉

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子規堂:正宗寺(しょうじゅうじ)内に俳人・正岡子規が17歳まで過ごした邸宅を模して建てられた木造平家建の建物。子規が使っていた机や遺墨や遺品、写真など約100点を展示している。子規堂前の広場には現存する最古の軽便機関車「坊っちゃん列車」がある。


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